2012年01月31日

ごはん

■2012年1月31日 火曜日 13時34分
 
 晴れており、日差しがある。しかし、寒い。
 寝起きの喫茶店は老婆の店が続いている。昼過ぎ起きだが、まだ夜型ではないためだ。
 決して同じ時間には起きてこれないが、それほどずれ込むことはない。日によっては数分早く起きていることもある。ちょうどそのとき、目が覚めたためだろう。それでも早い目に目が覚めると、これはまだ早いと思い、二度寝してしまうことがある。そのため、早く起きたときのほうが、遅く起きてしまう。せっかく早く起きたのに残念だ。しかし、起きたのではなく、目が覚めただけで、何もしていない。ここですることは、起きることだが、寒いと、なかなか布団から出たくない。それでも一日の中で一番暖かい時間に目覚めるので、冷え切っているわけではない。
 最近は鍋物が多い。野菜とタンパク質系があれば、それで済む。タンパク質系は最低限卵があれば、何とかなる。
 野菜が高い。それでもキャベツは量が多いので、お得だ。しかし、硬いので食べにくい。炒め物などはキャベツは便利だ。焼きそばもそうだ。細かく切ればいいのだが。
 それで、キャベツだけを湯がくことにした。湯がくと言っても、結構煮る。すると、嘘のように柔らかくなる。鍋で他の物と一緒に煮ていると、溶けそうになる。
 ラーメンのスープで、キャベツの芯を煮込み、どろどろにする作り方もあるらしい。確かに葉の柔らかいところは、溶けそうなほど柔らかくなっていた。
 タンパク質は冷凍された細切れのイカが残っていたので、それが活躍している。高かったが、量が多かった。だから、安い冷凍イカの細切れだ。破片のようなものだ。これが意外と柔らかいイカだった。いつでも取り出せる魚介類と言うことだ。イカはその中でも安い。
 だから、イカとキャベツがあれば、何とかなるが、それで三食、毎日だと嫌になるだろう。ただ、ご飯だけは嫌にならない。炊きたてのご飯は、それだけで美味しい。元々おかずは、ご飯を効率よく食べるためでよい。だから、塩だけでもいいのだ。それがおむすびだ。
 黒澤明の七人の侍を見ていると、ご飯が美味しそうだ。白いご飯の価値を、ここで見いだせたりする。また、「用心棒」で、居酒屋で、白いご飯を食べていたり、鍋のおかずをつついているところがある。これも美味しそうだった。その鍋は、客に出すおかずだが、皿か、椀に入れて、出すのだろう。しかし、用心棒はいきなり鍋に箸で芋のようなものを突き刺していた。ああいう鍋物が食べたいような気がする。
 映画「用心棒」はグルメ映画ではないので、食べものに関しては、何かを食べている程度で、詳細は分からない。それがもし、しっかりと料理を写していれば、それほど美味しそうだとは思わなかったかもしれない。つまり、鍋もアップはない。中身の抜きカットもない。だから、見る側が想像で補っている。ここが、美味しいのだろう。だが、逆に出ることもある。想像で補っているのだから。
 また、この映画を映画館で観ているとき、ちょうどお腹がすいていたときだと、さらに美味しそうに見えただろう。
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2012年01月30日

一太郎とEPUB3

■2012年1月30日 月曜日 13時45分
 
 曇っており、肌寒い。真冬中、ということだろう。
 しかし、雲の一箇所に明るいところがある。日はそこにある。しかし、薄い雲がとろろ昆布のように空に張り付いているので、日が出ることはないようだ。
 温度的には、日があると、日差しで昼間はそれなりに暖かい。当然の話だが、雲が暖かいものを遮っているのだ。
 昨日は久しぶりに食パンを買う。百円少しで6枚ほど入っている。夜中なのでコンビニにで買ったのだが、百均で一斤買えばよかった。それだけでは味気ないので、ジャムを買う。パンより高いが、何度か使える。しかし、この甘い蜜のようなものは、おやつだろう。
 喫茶店のモーニングでトーストが出る。大概バターかマーガリンが塗ってある。それをジャムにしてくれという客が必ずいる。確かにマーガリンより、ジャムのほうが食が進む。ただ、そのとき、コーヒーが甘いと苦しい。ジャムパンと、砂糖入りコーヒーを飲むというのは、逃げ場がない。
 
 一太郎のバージョンアップが近い。今、予約すれば、少し安く買えるのだが、夏前にアップ版を入れたばかりなので、少し早い。しかし、イーバブ3変換などを、早く見たいものだ。
 イーパブ3で、電子書籍、個人の本を売ることも出来る。という一太郎側からの言い方だが、それはパブーとの連携を指すのだが、パブーはまだイーバブ3に対応していないように思う。
 逆にパブーでイーパブ3ファイルが作れるのなら、一太郎はいらなくなる。ただ、パブーでテキストを流し込むのは面倒だ。それを、一太郎側から、自動的にやってくれるのならありがたいが、そんな仕掛けは、ちょっと想像できない。
 一太郎で作った書式付きファイルをパブーでアップするとしたら、パブーは無料版では出来ないはずだ。だから、一太郎で電子書籍のファイルを作っても、パブーで課金されてしまうことになる。ここはどうするのか、見てみないといけない。
 一太郎画面から、パブーを呼び出せるのなら、面白いのだが。つまり、パブーの裏口というか、特別なトンネルを開けてもらい、そこから進入する感じだ。
 一太郎ユーザー様は、どうぞ無料で、お手持ちのイーパブでもPDFでも、そのままアップしてください。とは、ならないと思う。だが、それは使ってみないと分からない。
 パブーは、アンドロイド端末からもオーケイだ。つまり、グーグル系なのだ。そちらのほうが、スマートフォンユーザーが多いためかもしれない。当然、大きい目のアンドロイド汎用機もアンドロイド機のほうが数が多い。だが、アンドロイド端末には一太郎は入らない。ATOKは入るが。
 要するに一太郎はイーパブ3を入れても、出す場所がないので、パブーに目を付けたのだろう。ただ、一太郎ユーザーはそれほど多くはない。ワードのほうが多いだろう。
 だから、イーパブ3に変換できても、持って行く場所がない。自分で見ようとしても、ビューワーは何処にあるのか、探さないといけない。
 一太郎のイーパブ3変換向けのテンプレートが、一太郎側に出来ているようだ。よく見ると、横書きのように見える。写真で、少し見ただけなので、詳細は分からないが、これはイーパブ2対応ではないかと思ったりする。横書きでイーパブ2に合わせたテンプレートではないかと、思ったりする。これは、すぐに分かることなので、この憶測はすぐにばれてしまうが。つまり、間違いだったと。
 ただ推定するのは、今だけの楽しみなので、勝手な解釈を続ける。そのテンプレートは、パブーへ持って行くためのものではないかと。そして、イーパブ3が入っていない端末、つまり、ソニーリーダーの初代などでも読めるように。
 3まで、対応していますが、現状はまだ2ですよ。ということだろう。
 3の特徴は、日本語の縦書きだ。2で、横書きなら、ソニーリーダーへは普通のテキストファイルでもいいのだ。
 ネット上にある長文をコピペでテキストファイルで保存し、そのファイルをソニーリーダーへ送れば、ゆっくり読める。
 テキストファイルや、PDFは強い。
 文章だけの電子書籍を買い、開けてみると、TXTファイルだった。というのも、ありだろう。それならHTMLではないメールでもいいのだ。
 メルマガというのもしつこい。ゴキブリのように強い。何処にでも入り込める。メールさえ受信できれば、端末を選ばない。
 そのうち、メーラー側もHTML5になれば、縦書きのHTMLメールを出せるようになる。これで、雑誌風マガジン発行も出来るではないか。
 ただ、メーラーの設定で、HTMLメールは開けない設定にしていることが多い、だから、広告メールで、HTMLを使っているタイプはタイトルだけで、本文は表示されない。だから、タイトルだけで削除している。HTMLメールは損だ。
 電子書籍の際を見ていると、どこかで先祖返り現象で、ばらけてしまうのではないかと、逆に昔からあったツールに戻りそうな雰囲気がある。
 それは電子書籍の読み方が多様で、よく分かりにくいためだろう。だから、もういいからソースで配布してくれ、という感じになるのだ。
 テキストファイルなら、ポメラで縦書きで読める。TXTファイルは強い。
 
 
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2012年01月29日

富士X-Pro1

■2012年1月29日 日曜日 14時43分
 
 晴れている。暖かい。真冬にしては、暖かい。しかし、夜は寒い。底冷えするので、下手をすると腹が痛くなるほどだ。
 冷蔵庫に入れている飲み物より、水道の水のほうが冷たい。同じ水道の水でも夏場に飲むと、気分が悪くなるほど生ぬるい。白湯だ。
 水道の水は夏冬逆転すれば、ありがたいのだが、これは有り難いだろう。つまり、ないと言うことだ。
 寝起き入る老婆の喫茶店は、日差しが届くので、ひなたぼっこをしているような感じだ。暖房も入っており、快適だ。暑くはない。
 冬場は日照時間も短いし、日も弱いので、貴重な日光浴だ。ビタミン何とかを、合成するためにも。
 
 富士のミラーレスデジカメX-Pro1が興味深い。形がライカだ。
 それよりも、レンズが35ミリF1.4などが期待できる。その期待とは、この受光しサイズだと、50ミリ前後になる。期待しているのは、背景ぼけだ。35ミリは、広角気味なので、それほどぼけないが、F1.4ならボケは期待できる。
 さらに50ミリマクロレンズもある。こちらは85ミリほどになり、F2.8だが、35ミリF1.4よりぼけるだろう。だから、85ミリあたりの画角で、35ミリフィルムカメラの場合の、50ミリF2.8のレンズで写したときのボケに相当するはずだ。
 単純に50ミリレンズで写すという感覚だと、35ミリF1.4レンズが豪華でいいのだが、ボケは35ミリ分しか期待できない。それでいて、画角は50ミリなのだ。これが、ミラーレスを含めて、フルサイズではない一眼レフデジカメの世界なので、35ミリフィルムカメラに相当しないところが、今ひとつなのだ。
 それを少しでも似せようとするには、明るいレンズを付けて、ボケを稼ぐと言うことになるが、やはり、フルサイズ、つまり50ミリは、50ミリ。35ミリ換算しなくても50ミリになるデジカメが安くならないと、本来ではない。
 逆に広角レンズを付けて、写すのなら、どうせボケは期待しないのだから、ピントが深い写真を写したいのなら、非常にお得だ。
 ただ、そうなると、普通のコンパクトデジカメのほうがさらに有利で、そして、写りは一眼レフデジカメと広角ではそれほど変わらない。言うほどの受光素子の大きさの恩恵はないのだ。それを言うと、高い目の一眼レフデジカメを持っている人には失礼なので、これは言ってはいけないことだが。
 コンパクトデジカメで800ミリの望遠だと、35ミリフィルムカメラの140ミリあたりになる。これはぼける。望遠レンズのためだ。そこまで伸ばさないと、望遠らしいボケが出ない。800ミリで写しているのだが、実際には140ミリの中望遠で写しているのだ。600ミリ望遠で100ミリほどだろうか。100ミリの望遠レンズで写すというのは、そこそこぼける。しかし、ぼけやすい距離にすると、超どアップになってしまう。
 これで、分かるように、コンパクトデジカメは、マクロに強いと言うことだろう。そのときは、完全にぼける。近寄りすぎのためだ。そして、最短撮影距離が1セントなどがふつうのなので、一眼レフデジカメには出来ない芸当で、今まで寄れていたのに、一眼レフで本格的に写そうと思うと、とたんに寄れなくなる。
 コンパクトデジカメらしい撮影としては、望遠マクロがある。これは望遠端が超望遠でも、40センチまで寄れたりする。
 料理の写真や、小物の写真、つまり、テーブルの上に乗っているようなものを写すとき、広角で1センチまで寄れたとしても、形が歪む。見た感じの形ではない。35ミリフィルムサイズでは85ミリ画角や100ミリ画角を使う。フォルムが、ほぼそのまま再現されるからだ。だから、望遠接写が出来るコンパクトデジカメがありがたい。だから、高級コンパクトデジカメはズーム比はないが、80ミリや100ミリまではあるはずだ。それでいてレンズは明るい。ただ、よくスペックを読まないと、最短撮影距離10センチは広角の場合、望遠端は1メートルとなっている。ただ、それは端なので、広角から少しでも離れると1メートルになるわけではなく、ズーム比に合わせて最短距離が違うタイプもある。また、広角端から少しでも出ると、1メートルになってしまうカメラもある。
 コンパクトデジカメから一眼レフに乗り換えた人が、不満を感じるが、それが言いにくいのは、接写だろう。マクロレンズやクローズアップレンズを付ければ解決するが。一眼レフの概念は、システム一眼レフとして、持っていてこその一眼レフなのだ。特価で買った標準ズーム付き一眼レフだけでは、足りないのだ。
 そして、マクロレンズを買おうとしても、その値段で、デジカメがもう一台買えたりする。
 
 
 
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2012年01月28日

小説の見せ方

■2012年1月28日 土曜日 14時44分
 
 晴れており、温かい。天気予報は当たっていた。ただ、それを信じたので、得をしたわけではない。天気予報の予報が当たったという程度だ。予報された予報を予報する感じだ。それが当たっていた。だから、天気が当たったのではなく、予報が当たったわけだ。天気そのものは当てられないだろう。
 狭い範囲の予報が当たった程度である。その範囲は日常範囲内だ。暑いとか寒いとか、雨とか曇りとかの。傘がいるかいらないか程度の。
 老婆の喫茶店で、ノートパソコンを開けると、ウインドウズの更新が終わっていた。ノートは終了しないで使っている。そのため、ウインドウズの起動をするタイミングは、強制的な再起動を促されるときだけだ。幸いフリーズはしないので、再起動する機会もない。
 ウインドウズ機のノートパソコンで、モバイルパソコンとして使っている場合、さあ、何か始めようとすると、ウインドウズが勝手にお仕事を始めることがある。
 特にお仕事などで、誰かに画面を見てもらおうと、まあ、プレゼンのようなものをしているとき、ネットに繋ぐと、いつ、自動更新ものが動き出すか分からない。
 部屋で充電しているとき、ネットに繋げている。そのとき、入ってくるのだ。その更新プログラムファイルをため込んでいると、外出先で、なかなかパソコンを使わせてくれない。
 
 フォトエッセイ「ポストモダンエレジー」デジタル化寸前だ。ほぼ出来上がりつつある。
 一太郎で電子書籍風なのを作る、という今までやったことがない作業だ。いつもなら、ウェブ用に作る。だから、使うソフトはホームページ作成ソフトと言うことになる。こちらは慣れているし、似たような書式をそのまま使える。
 一太郎からPDFへの変換は早い。できたPDFを見ながら、修正する。
 ほぼ一太郎での画面と同じものが、PDFで出来ている。だから、作っている画面と、それを見せる画面が同じだと、修正もしやすい。
 同じように、一太郎からHTMLをはき出せる。一太郎で300ページ近いものを、一ファイルのHTMLにしてくれるが、これは巻物としては長すぎる。スクロールしきれないだろう。
 これはオプションがあり、一太郎の1ページを、HTMLの一ファイルに分割し、前ページ、次ページを入れてくれるタイプだ。
 また、HTMLはぐにゃぐにゃで、レイアウトが崩れやすい。そのため、画面幅を固定するかどうかのオプションがあったり、改行、階段、表系のタグの形式も指定できる。
 電子書籍を作るとき、それは本だというイメージがあると、作成ソフトは一太郎になるのは、何となく便利なためだ。印刷するためのワープロのためだ。ページ数という概念があるためだが、ウェブにはページの概念はなく、ページにしたければ、細かくファイルを作る必要がある。300ページなら、300枚のフィルが必要だ。これはさすがに編集しにくい。
 ただ、300ページのウェブコンテンツというのは、あまり見かけない。いつの間にか、300枚になっていたと言うことはあるが。
 一太郎ではなく、ワードでもPDFははき出せる。というより、印刷できるソフトなら、ほぼ、出来る。
 HTMLで作ると、ファイル数が多くなる。画像もそのまま枚数分はき出さないといけない。ワープロで使う画像は、中に隠してある。だから、外からでは見えない。PDFもそうだ。これが書類として便利なのは、ファイリングしてくれているからだ。一ファイルの中に、全部詰まっている。
 HTMLになると、ファイル数が多いので、フォルダ単位で動かす必要がある。それを圧縮ファイルにし、一ファイルとして、やり取りするのだろう。ダウンロードでは、このやり方になる。
 ウェブ版になると、レイアウトが崩れるというか、見る側の画面の大きさや、ブラウザの窓の大きさにより、桁数が変わったりする。
 しかし、ネットを見ていて、文字が小さいページでは、拡大して見る。だいたいコントロールキーと+キー、−キーで、伸び縮みするので、多用している人も多いだろう。当然、タブレットタイプだと、指先で拡大縮小し、今、どのぐらいの倍率で見ているのか、分からなくなる。
 桁数を固定させないと、見る側が全画面で、大きなモニターだと、大変長い桁数になる。まあ、それは見る側が、調整するしかないということだが、これも好みの問題だ。読みやすさ、見やすさの好みはばらばらだ。
 電子書籍となっているものが読みやすいのは、文字サイズを変えることが出来、しかも桁数はそれに追従する。この一点だけかもしれない。しかし、それをすると、ページ数も伸び縮みする。
 写真に関しては、ページ内に写真を入れるため、写真が小さくなる。ウェブなら、原寸も表示できる。そこまで大きな写真は必要ではないが、もう少し大きくないと、その写真の意味が薄くなることがある。だから、写真集の本の判型は大きい。
 漫画もそうだ。あまり小さい画面だと、その絵のよさが削がれる。細かいところの描写が見えていたとしても、そのサイズでは、本来の見え方ではないような気がする。作者が見せたかった大きさの絵というのがある。それは書いたときの紙の大きさだ。モニター上でその紙の大きさになるようにして見れば、問題はない。
 雑誌の漫画が、いきなり文庫本、豆本のような小ささになると、がっかりする。電子書籍端末の枠が、棺桶のように見えたりする。
 デジタル化され、永代供養なのだ。
 その意味で、縮小されても、ちょうどいいような絵や写真が好ましい。意外と、あらが見えないので、よかったりする。
 写真は動画にして、全画面で、見てもらうほうがいいかもしれない。その人が見ているモニターいっぱいだ。動画を見るとき、そういう見方をしているはずだ。
 だからスライドショーと言うより、停止ボタンが押せるタイミングだけのタイムラインでいい。動画なので、しばらくすると次の写真が表示されるので、もう少し、その写真を見たいときは、停止ボタンを押せば止まる。
 また、先送りというか、ランダムに、タイムライン位置を押せば、順番に見る必要もない。
 動画がいいのは、クリックしなくてもいいからだ。そして、止めたいときは、いつで止められので、その写真をじっくり見ればいい。
 電子書籍も、動画で作る方法もある。ニコニコ静止画のように。
 文字は画像なので、何とでもなる。
 しかし、スライドショー的に表示させるのなら、ぎっしり詰まった文字画面より、ゲームのナレーションや台詞の表示方法のほうが、読みやすいかもしれない。
 それをパッケージ化して、見せる方法は、RPGツクールや、ノベルゲーム作成ソフトだろう。ただ、プラグインというか、ビューワーがいるし、オフラインで見るため、ネット向けではない。
 小説を動画にしてしまえば、ユーチューブやニコニコ動画の恩恵を受けられる。ネット上に張り倒せたり出来る。
 要するに、よくあるツールで、多くの人が親しみのある画面で、そして、誰でも簡単に作れ、取り回しのいいものを考えることも必要だ。
 テレビで小説を読む。と言うのもある。リビングの大きなテレビで、遠くから活字を追うのは、黒板を見ているような感覚かしれない。
 電子書籍端末が、実は家庭のテレビだったりするほうが、寝転がっても読みやすいのではないかと思える。
 
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2012年01月27日

ニコンP500その後

■2012年1月27日 金曜日 13時43分
 
 曇っており、寒い。天気予報では、昨日よりは今日のほうが温度が高いようだ。その昨日から今日になったのだが、昨日とそれほど温度は変わらないのだが、予報を聞いているので、暖かく感じたりする。これは暗示に近い。
 実際、今日の温度はどうかと考えると、これは考えることではなく、感じることでいいのだが、寒い。決して暖かくなっていない。予報は外れることはあるが、だいたいは信用している。ほぼあたるからだ。多少ずれたりする程度だ。天気がどちらへ向かっているのは当たっている。これは、雲の動きや風の動きで、気象台がなくても、昔から分かることではないかと思えるが。だからだいたいのことは、気象庁がなくても分かるのだろう。そうでないと、やっていけない職業が多い。
 夕焼けや朝明け、夜の星の見え方。月の輝き方、山にかかる霞や動植物を見ていると、何となく分かったのではないだろうか。長期予報は、いつものパターンにならないので、昔からの漁師などは当たらなくなったと言っていたが、数日先までの流れなら分かるだろう。
 天気が悪くなる。つまり低気圧が近いと、体調が悪くなる人なら、すごい予報士だ。
 パナソニックのアウトドアカメラは位置情報を得ることもできるが、何と気圧計が内蔵している。今のその場所の気圧が分かる。これがあると、体調が悪いとき、気圧のせいなのかどうかが、分かるかもしれない。当然、経度、緯度、標高も分かる。これは山に登ったとき、今何メートルほどなのかが分かったりするし、平地だと思っていたのに、50センチほど高い、などが分かったりして、段差があることが証明されたりする。気圧計は欲しいところだ。
 位置情報が得られるデジカメはいいのだが、地図も欲しいところだ。後で、パソコンで地図を見るのではなく、その場で見たいものだ。
 ただ、地図よりも、目で見たほうが、わかりやすいことがある。地図ではわかりやすいのに、リアルでは、わかりにくい場所がある。
 ちなみに、そういうカメラは、コンパスも付いている。いつ使うのだろうか。山の中で遭難したときかもしれない。
 
・ニコンP500の続き
 数日使ってからの感想となる。
 結局アイレベルで写せる小さなデジカメと言うことだろうか。これが欲しかったのだろう。
 そのメリットとして、堂々と写せる。これは大きい。コンパクトデジカメでの手かざしは軽快だが、あまり堂々としていない。
 それは場所にもよるが、カメラスタイルのカメラは、いかにも写しているように見られる、というように見てしまう。本当に他人がそういうものとして見ているかどうかは分からないが、本人がそういう風に思われて見られているという主観的事実が大事なのだ。この事実はすぐに崩れるかもしれないが。
 つまり、写真をきっちりと、趣味としてやっている人のように思われる。だから、コンパクトデジカメに比べ、ネオ一眼は、もうあきらめたように、ゆっくりとした動作で、カメラを取り出し、しっかりと写すことになる。
 要するに、コンパクトデジカメだと、何かこそこそやっているように見られてしまうと、自分で見ている。
 それで、主婦の多い自転車置き場などでも、堂々とカメラを取り出し、偉そうに写せる。いかにも難しい機材を操作しているかのように。
 しかし、見る人が見れば、それはネオ一眼で、形だけはカメラの形をしているが、実は、値段は非常に安いカメラで、一眼レフが買えない人が使っていると、カメラに詳しい人は思うだろう。ただ、そういう人は滅多にいない。スーパーの駐輪場でウロウロしていないのだ。つまり、ちゃんとした撮影地へ行き、そこで写しているのだ。
 それで、P500だが、殆どアイレベルで写している。貧乏臭く荒い電子ファインダーだが、このクラスでは一割ほどファインダーは大きい。ピントなど見えないのだが、構図がよく見える。そして、音もなく写してしまう。その静けさは、何とも愛想がない。
 一眼レフでは横にいる人を盗撮できないが、ネオ一眼なら音もなく出来るという話ではない。この静かな音のなさが、頼りなさになり、いいのだ。
 そして、何よりも軽い。
 ニコンの昔のカメラで言えば、EMだろうか。名前は忘れたが、ニコンF3時代、つまりマニュアルフォーカス時代の最終機種時代に出たカメラで、非常にコンパクトなオート機だった。それに形が近い。そして、標準ズームを付けたよう出っ張りだ。非常に小柄なカメラだった。これは中古で買ったが、何処かへ行ってしまった。
 P500は写真で見るよりも、小さく、持ってみると軽い。すかすかなカメラで、機械としての重さを感じない。これよりも軽いコンパクトカメラのほうがズシリと手に来ることがある。それは、大きさに対しての予期せぬ軽さのためだろう。
 そのため肩にかけると、安定しない。ズシリと下に重みが掛からないためだ。
 そして、カメラそのものが非常にオーソドックスで、夜景二枚撮り以外には魔法的な技はない。
 結局夜景は、夜景モードに入らないときがあるので、感度を3200にして、シャッター優先で写すのが好ましい。ノイズはあまり感じられない。夜景と言うより、薄暗い夜の道や、路面を写したいのだ。夜景とは光っている明かりを撮るようだが、そうではなく、路面や、薄暗い路地を撮りたいのだ。街灯の光で、うっすらと見えているのだから、暗闇ではない。
 これは、それほど難しくはないが、それを望遠で写すというのが、今の課題だ。光源だけなら写せるが、光源を外した路面だけを望遠で写すとなると、タイム露光に近くなる。しかし、それを自転車の上から手持ちとなると、少し難しい。
 
 さらに、その後ニコンP500の話。
 夜景は感度を3200で写すほうが、好ましいことが分かった。二枚撮りよりも、感度あげというオーソドックスに攻めたほうが早いようだ。
 ただ、このデジカメ、アイレベルの表示が暗い。それは半押しにするまで、露出を合わさないためだ。少しだけ、半押しすると、電気が付いたように明るくなる。しかし、この画面はかなりリアルで、実際に写った状態に近いのか、やはり暗い。
 それよりも液晶で見るよりも、アイレベルで見たほうが、確実に構図が取りやすい。
 夜景モードの反則を使わなくても、感度上げで、結構いい勝負をする。他のデジカメに比べ、夜景や暗い場所が苦手ではない程度だが。夜景モードよりも、感度上げのほうが、明るい目に写る。
 昼間の撮影では800ミリがやはり効いている。人物だけではなく、遠くにある物体を抜くことが出来るのだが、かなりピントが浅いことが分かる。そのため、ソフトな描写が得られる。その被写体が、800ミリに来る状態にして写すと、手前ぼけも背景ぼけもOKだ。ただし、ピントが同じ位置にあるものでは無理だが、手前ぼけは効く。非常に浅いピントを得ることが出来。ピントの当て方が微妙になる。そして、描写が甘くソフトで、非常に柔らかい。ただし、無茶なズーム比のレンズだからといって、像が乱れたり、偽色が出たりとかは、見た目はない。輪郭に妙な偽色も出ない。つまり、像は崩れない。特に鮮明ではないが、まあ、普通だ。質感はよく出ていると言うより、それなりに鮮明な被写体なら、鮮明に写る。ただし、あまり強調されていないようで、描写は大人しい。だから、柔らかなタッチの好きな人にはお勧めだ。
 こういうコンパクトレンズの中で、綺麗に写るような感じのものではなく、味のあるレンズが好みだ。レンズ性能を極限にまで引き出したとしても、それは似たような写りになってしまう。
 コントラストが強い場所での、階調上げだが、これを使うと、色目が落ちてしまう。確かに白飛び、黒つぶれは緩和されるが、色が薄くなる。これは、単に明るく修正しているだけのことではないかと思える。明るく修正したときは、コントラストも上げないと、無理にこじ開けたタッチになる。黒ベタがないのだ。
 階調は暗い目に写す露出補正側が好ましい。または、後で、暗い目に修正すればよい。手前は日陰で、背景は太陽光を満々と受けているような場所では、どちらも犠牲になる感じだ。写っていても、絵が薄っぺらくなる。どちらかに合わせるほうがいい。
 
 
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2012年01月26日

フェースブックとグーグル+

■2012年1月26日 木曜日 13時35分
 
 起きると、昨日よりは、少し早い。そして、寒くなっている。室温が10度になると寒い。冬の初めの、あの寒かった日に近い寒さだ。いよいよ冬の底へなだれ込むのかもしれない。
 寒いがよく晴れており、日が眩しい。
 いつも、寝起き、喫茶店へ行くとき煙草を買う。ちょうど切れているのだ。数本残っているが、喫茶店で切れそうなので、その前に煙草屋へ入るほうが段取りとしては好ましい。コンビニは二軒がある。近くのコンビニは最近パネルをタッチしないといけないのが、嫌な感じなので、避けている。年齢確認だが、見れば分かる。それが、嫌な感じというか、これは、店員のためなのだ。それが分かっているので、協力するのが、何となく鬱陶しい。それで、遠いほうのコンビニで買うことにしている。
 または、スーパーのレジ近くにある大きな煙草コーナーで買うようにしている。
 煙草が品不足の時期は終わったので、もう売られていても、ありがたみはない。
 スーパーのレジにも煙草が置かれてるが、銘柄が限られている。ここで買うのが一番手頃だ。電池などがよくレジ近くに置かれている。あれと同じで、買いやすい。
 昔なら、煙草を買うだけで、煙草屋まで行っていた。煙草を買いに行くという、よくある風景だった。今は、何かのついでで買うことが多い。そして、煙草屋の代わりがコンビニだ。自販機もあるが、カードがないので、買えない。自販機でもいいのだが、腰をかがめて煙草を取り出すのが面倒だし、ボタンを押すのも面倒だ。店売りは、声を出せば銘柄が出てくる。釣り銭も手渡しだ。店により、何も言わなくても、無音でもいつもの銘柄が出てくることもある。しかも一つではなく二つ。いつも二つ買うので、個数まで覚えている店員がいる。
 店売りでは当たり前の話だが、長く自販機で買っていると、これがありがたく、そして便利なことが分かる。
 昨日はスーパーでアルミ鍋カレーうどんを買う。寒いときはカレーうどんが温まる。普通のうどんの場合、汁まで吸わないが、カレーうどんは汁を吸わないと損だ。天ぷらうどんは天ぷら、きつねうどんは揚げが入っているが、カレーうどんにはカレーの粉が入っているだけだ。だから、具はカレーなのだ。従って吸わないと損だ。
 このアルミ鍋のカレーうどんは、スープは濃縮ではなく、そのままだ。だから、鍋に水を入れなくてもいい。こういう出汁はもったいなので、吸ったほうが好ましい。粉末出汁では、そのありがたみがない。
 また、このカレーうどんは珍しく麺が柔らかい。最近のうどんは硬くなっている。それは以前も触れたように、日本のうどん用小麦を生産しているオーストラリア産小麦の柔らかい目小麦が不足しているためだ。この小麦が柔らかいのだ。そのため、硬いうどんは、腰が強いのではなく、元々小麦粉が硬いのだ。うどんはふにゃふにゃなほうがいい。なぜなら、腹具合が悪いときなど、うどんを食べる。この場合、ご飯より、柔らかく消化がよいためだ。それが、硬いうどんでは意味がないのだ。
DSCN0026.JPG 
 最近はフェースブックやグーグル+が興味深い。自分のホームページや自分のブログなどは、アップするとき、一度確認するだけで、その後、見ない。
 ところが、フェースブックやグーグル+は、その後も見たりする。なぜなら、フォロー関係にある人の記事が表示されるからだ。そこで、面白い記事やウェブページの紹介がある。何となく、その人がテレビ番組を紹介しているような感じで、ガイド役となっている。いつもなら、見ないようなウェブサイトへ誘導してくれる。それをやっている人は業者ではない。その場合の業者とは、一方的に誘導するだけのロボットのような人だ。
 つまり、少しは関係のある人が紹介するウェブ上の記事がランダムに出る。別に適当に出しているわけではないが、見る側としては、何が飛び出すのか分からない。だから、それを読むために、フェースブックやグーグル+を見に行くのだ。ブログではそれはない。あっても、そのコメントはほぼ広告だ。
 最近のミクシーはそんな感じになっているので、記事を止めている。広告勧誘員の餌場になっているだけに近い。コミュニケーションサイトで、コミュニケーションをしないと、そう言うことになる。他の書き込みはないので、広告勧誘コメントだけが目立つためだ。
 ツイッターはやっていないが動いている。ただ、誰もフォローしていないので、自分の記事しか載らない。だから、ブログと同じで、見に行く必要はない。変化がないためだ。
 ツイッターはやっていないが、ブログで投稿すると、それがツイッターにも表示される仕掛けを使っている。だから、ツイッター画面上で書いていない。それどころが、ツイッターのIDやパスワードが上手く伝わらないのか、入れない。
 フェースブックはフォローし合っている人が紹介する記事を読むのが楽しみだ。記事へのリンクだけでは、飛ばないが、その頭の数行が表示されるので、中身が少し見えるのがよい。
 また、いつもの人が、いつものネタで何かをやっているのも、慣れてくると、日常風景になる。
 フェースブックやグーグル+で、日記風、ツイッター風につぶやいている人もいる。これも毎日見ていると、慣れてきて、これも日常風景になる。ネットは大海だ。だから、いくらでもそう言った記事や、文章や絵や写真や動画は見られるのだが、自分から進んで見に行くより、自分の場に引き寄せられるところに特徴がある。
 チェックしたいブログなどを、あらかじめ設定しておいて、更新されれば、それを見に行くという仕掛けもあり、そちらのほうがより役立つのだが、宿題を溜め込んでいるような雰囲気になる。
 ネット上では目が疲れるので、長時間読めない。情報も多すぎる。
 フェースブックなどでは、その人物の別の趣味というか、本命以外の側面も見られるので、専門知識だけのお披露目ではなく、その人物の好みや世界観のようなものまで、何となく、見えてきたりする。つまり、半ばプライベートな面も分かるので、本命の記事でも、その背景なり、指向性が、何となく分かる。
 普段、こう言うことを考えている人が、とある記事に対して、どうコメントするのかが、分かりやすくなる。
 ツイッターでもフォローしたという報告メールが来るが、それを見ていると、最近広告系が多くなっている。広告でもいいし、商品やサービスを伝えてくるのは、何の問題もないし、協力してもいい。しかし、名を名乗れ、ということだ。名前を明かし、普通の記事を書いている人なら、広告マンでも、馴染みが出来る。しかし、その人のページへ飛ぶと、全面広告では、何ともし難い。店と客だけの関係のためだ。人柄が見えない。これはロボットだ。
 フェースブック、グーグル+。結構役立つので、それに近い物がないか探している。実際はコミュニケーション的なことは何もしないのだが、そういうタイプの人でも、気楽に参加できる場が好ましい。
 フェースブックは普通の検索にはかからないはずだが、グーグル+では、グーグルの検索でかかるようにならしい。こちらのほうがお得かもしれない。
 フェースブックやグーグル+は自分の視野からでは探せない、またはわざわざ探さない記事を、自分の代わりに探し出してきて、紹介してくれることだ。しかも自分の場というか、自分のページ内で、それが表示されるため、家にいながら、報告を聞くようなよさがある。ネットは広いが、ある絞り込んだフィルーから覗けるところが好ましい。
posted by 川崎ゆきお at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月25日

読みやすい文章表示

■2012年1月25日 水曜日 14時48分
 
 風が強いのか、寒い。よく晴れている。日差しも強い。暖かいはずだが、基礎温度が下がっているようだ。
 まだ、一月だが、もう春が来るのではないかと、最近暖かいので、そう思ったほどだ。まだ、真冬には達していないし、冬の底も通過していない。しかし、このままフラットな状態で春に至るのが一番好ましいだろう。そして、今のところ、フラットだ。
 昨日は百均で200円キャベツを買う。実際には210円だ。
 それを焼きそばに入れて食べるが、硬い。
 次のキャベツの出番は、キャベツをメインにした。硬いので、食べにくいため、煮た。
 ロールキャベツのキャベツが柔らかく、美味しいので、煮るのが一番だと考えた。それと、百均で買っていた三割引のシューマイを入れる。ロールキャベツとシューマイは近い。皮一枚だ。だから、シューマイをキャベツで巻けば似たようなものができるが、シュウマイはすぐに煮崩れする。キャベツを長い時間煮込む必要がある。だから、一緒には煮られない。だから、キャベツが柔らかくなったあたりでシューマイを入れる。しかし、あっという間にシューマイの皮が溶け、分解するところだった。シュウマイの皮は餃子の皮に似ている。
 そういえば、百均では餃子とシュウマイが同じ場所にある。お隣だ。シューマイのほうが具が多そうなので、こちらのほうがお得だ。そして、シューマイは食べたい分だけ、すぐにレンジで温められる。
 葉物野菜が高いので買えないが、キャベツは意外と安かった。本来なら、キャベツも100円で一玉あるはずだ。だから200円は高いが、他の青い葉物よりも量が圧倒的に多い。
 
 ネット上での文字を読みやすくすると言うのは、作る側としては、それなりの努力が必要だ。ただ、ブログなどに流し込む場合、何ともならないこともある。いじれないこともないかもしれないが、さっと流してアップしたいものだ。そんなところで、時間を掛けたくない。
 以上の文章を読みやすくしたのが、下の改行だ。

 ネット上での文字を読みやすく

すると言うのは、作る側としては、

それなりの努力が必要だ。

ただ、ブログなどに流し込む場合、

何ともならないこともある。

いじれないこともないかもしれないが、

さっと流してアップしたいものだ。

そんなところで、時間を掛けたくない。

 以上。
 これは、ブログなどでよく使われる例だろう。改行後一行開ける。それよりも、行間隔を広くすればすむ話だ。いちいち空行を入れる必要はないが、ブログの場合、スタイルシートで、行間隔が定義されている。そこを変えればいいのだ。パーセンテージで変えると、わかりやすい。400パーセントかに。
 しかし、その定義されているスタイルシートが何処にあるのかが分からないだろう。ブログのスタイルシートは、誰かが作ったものをそのまま使っていることがある。そのため、その誰かの流儀で、スタイルシートの並び方が違うのだ。だから、定義場所を探すのが大変だ。
 こういうときは「%」で検索すれば、出てくる可能性がある。ただし、行間隔などを、パーセントではなく、ピクセルなどで指定されている場合もある。このあたりが流儀で、作った人の好みや癖で変わるので、統一感がない。中には、日本語のコメントを入れて、ここから記事の文字の大きさ、などと入れている親切なスタイルシートもある。
 桁数を強制改行して、横幅を狭くすると読みやすいが、切る場所が問題だ。句読点の多い文章なら、切りやすい。長いと、句読点がないのに、引き裂くことになる。
 フィニッシュがウェブなら、問題はないが、後で、二次使用する場合、千切れた行をくっつけないといけないので、面倒だ。
 また、ベタベタのHTMLで文章を流し込むと、ブラウザを広い目に開けている人は、非常に長い桁数になる。
 それを両脇をインデントで狭くしようとしても、画面が広すぎると効かない。
 嫌われ者の表を使い、そこに流し込み、表を固定してしまえば済むが、表は嫌われ者だ。
 しかし、表のレイアウトなら、すぐに出来る。
 これをスタイルシートで作るとなると、面倒くさい。
 要は三段組みのようなレイアウトにし、左右を何も表示させなければいいのだ。
 そうすると、真ん中の段が本文段となり、桁数が固定する。
 そのスタイルシートを、簡単に作る方法がある。コードなど覚える必要はない。
 そのソフトはソースネクストの「ホームページゼロ」だ。そこで、スタイルシートによる画面レイアウトを画面を見ながら微調整しながら作れるので、それだけを抜き取り、テンプレートして使うのだ。
 テンプレート言うより、それで保存すれば、外部スタイルシートをはき出すので、そのスタイルシートファイルを使い回せばいいということだ。
 要するに、そういうものを駆使して、電子書籍風の画面レイアウトが作れる。だから、そこで弄っているのはスタイルシートであり、電子書籍の書式も、その親戚のようなものだ。イーパブと、スタイルシート、これは同じではないか。
 しかし、自分でインスタント的に作ると、掘っ立て小屋になり、何かの拍子で、どさっと小屋が潰れたりする。
 そこまでやらなくてもいいから、ネットがフィニッシュなら、出来る範囲内で、読みやすい工夫をすべきだが、人ごとではない。
 文章を書く頭と、レイアウトをする頭は別なのだ。
 

posted by 川崎ゆきお at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月24日

一太郎電子書籍編集

 晴れている。昨日よりは少し早い目に起きる。
 寝起き、老婆の喫茶店へ行くのだが、その道順がある。いつも同じ道だが、煙草が切れたとき、煙草屋経由で行く。実際には煙草屋はコンビニを指すことが多い。煙草屋そのものが少なくなっている。
 そのコンビニへ寄るため、道順を少し変える。これが意外と落ち着かない。寝起きなので、あまり頭を働かせたくない。変化が欲しくないのだ。昨日と同じ場所を見ながら行くのが好ましい。
 喫茶店を出てからは、どの道でもかまわない。いつもの道でなくてもいい。それは、もうこの時点で目が覚めているからだ。寝起きは目覚めで、目は覚めているから出かけられるのだが、ただの目覚めでは目が開いているだけなのだ。体も動いており、営業中だが、まだ準備中なのだ。起動しているが、起動中なのだ。
 だから、寝起きはあまり頭が働かないので、刺激は避けたい。だから、寝起き、老婆の喫茶店までの道は、静かにぼんやりと自転車で走るのが好ましい。
 
「ポストモダンエレジー」の電子書籍作成の続き。
 電子書籍云々ではなく、一太郎でレイアウトしているだけのことだ。昔なら、それを電子書籍作成などとは言わなかっただろう。ただのフォトエッセイ作成だ。ただ、以前なら、それは原稿で、フィニッシュではなかった。原稿は、編集者に渡す。それで終わりだ。だから、当然だが編集作業はしなくてもいい。
 作者が雑誌などの編集作業に関わらないのは、その雑誌の主旨をあまりよく知らないからだ。編集者は、それに沿った当てはめ方でレイアウトする。デザインと言うほどではないが、ページ割りする。いろいろと配慮している。それは、著者とは別の世界で、編集者の世界だ。まあ、八百屋で食材を案配配置するというような感じだ。
 PDFによる電子書籍は一太郎などのワープロで書いた原稿なら、そのまま本にしてしまえる。ただ、それに表紙を付けたり、などを考えると、とたんに面倒になる。つまり装丁だ。そんなことは考えたことがないだろう。
 だから、パブーなどの電子書籍作成サイトでは、あらかじめ表紙のテンプレートのようなものがある。画像が用意できない人向けだ。イメージに合う画像を探すだけでも大変というか、それを省略したい人向けに、文字だけで表紙が出来るツールが起動する。
 本の装丁と、作者が原稿を書いているときの頭とは、違う使い方であり、違う才能が必要なのだ。器用で、まめな人は、問題なく自分で装丁までやってしまうだろう。決まったイメージが既にあるのなら、話は簡単だが、画像を探したり、貼り付けたりする作業が面倒な人は、無理だ。嫌仕事になるからだ。
 それで、ポストモダンエレジーだが、これはフォトエッセイのようなものなので、写真が多い。しかも細々とある。それをレイアウトするのは面倒だが、あるパターンがあり、それに沿って、やれば、それほど難しくはない。そのパターンとは、読みやすくなるようにだ。写真も文字も読みやすく見えるような妥協点を見つける。これだけだ。
 写真は小さいと見づらい。しかし、大きくすると、文字数が足りなくなる。
 文字の桁数は、短すぎても読みにくいし、長くても読みにくい。しかし、規定の文字数内に規定の枚数の写真を収めないといけない。さらに、ページ内に収める必要がある。ウェブなら、ページ概念がないので、押し出していけばいいだけなのだが。
 いずれにしても、電子書籍風なものを作るという程度のことで、目的は完成させることだけかもしれない。
 

posted by 川崎ゆきお at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月23日

一太郎とPDF

■2012年1月23日 月曜日 15時20分
 
 起きるとかなり遅い。いつもより早く目が覚めていたのだが、二度寝したためだ。相撲の立ち合いのように、まだ立てないという感じだった。
 雨はやんでおり、晴れている。日が出ている。眩しいほどだ。そして暖かい。一月末あたりから真冬に入るはずだが、その気配がない。このまま行ってしまいそうな雰囲気だ。つまり、それほど寒くないのだ。その証拠に、冬の入り口で着ていた服装と同じで済む。本来なら、中に分厚い目のものを着込み、ズボンも薄い中綿の入っている防寒ものを履くはずだ。その必要がまだない。もうすぐするとあるかもしれないが。
 百均で買った大根が意外といける。最初触ったとき柔らかいため、賞味期限切れで、しなびかけているのかと思ったのだが、そうでない。賞味期限切れ台ではなく、普通の野菜コーナーで買っている。この柔らかいというのがポイントで、煮えるのが早い。大根はなかなか煮えないし、煮えたと思ったら、まだ芯のようなものがある。筋だろうか。
 しかし、その大根。野菜が高いので、百円の野菜候補でたまたま大根だっただけなので、大根が欲しかったわけではない。しかし、これが美味しい。まるでじっくり煮込んで柔らかくなったおでんの大根そのままだ。しかし、煮込んでいないのに、柔らかいのだ。非常に得をした気分だが、年中このタイプがあるとは限らない。百均の大根だけではなく、同じ生産地の大根が年中あるとは限らない。だから、安定してこの大根が買えるわけではない。ただ、言えることは指で触って柔らかいのがいいということだ。
 
「ポストモダンエレジー」一太郎版を作っている。一太郎版というのは、印刷するためのファイルだ。ワープロソフトなので。
 実際にはPDFにするために、一太郎でレイアウトしている。
 PDFファイルを、PDF作成ソフトだけで作るというのは希だ。一太郎から見ると、PDFへ印刷するという意味だ。プリンタとPDFは似たようなドライバーなのだ。だから、一太郎で印刷するのと同じように、PDFに印刷するような感じだ。実際にはプリンタへの出力ではなく、ファイルへの出力になる。
 一太郎はレイアウトソフトでない。家庭用DTPソフト的にも使えるが、それは簡易DTPで、見た感じは似ているが、一太郎の場とは行単位の場なのだ。
 つまり、ワープロソフトなので、ピクセル単位の用紙ではなく、行単位で、行間隔のあるシートなのだ。
 そこに写真を挿入すると、簾の上に写真を置くような感じになる。行が磁石のように吸い付く。このあたりは調整できるようだが、普通の図形ソフトより、難しいだろう。
 さらに一太郎は紙に印刷する書類がメインなので、紙に余白がある。さらにヘッダ、フッタがある。最近はプリントしないので、普通の文章の印刷もしないので、ワープロでの印刷は忘れている。ただのエディターとして使っているためだ。
 しかし、細かいことを考えなければ、一太郎で文章と写真を組み合わせたレイアウトは簡単にできる。写真をドロップすると、用紙幅以上の大きさでは挿入されない。また、用紙幅以上の拡大もできない。そして、画像は大きなサイズでもいい。縮小されて表示されるので、あとで、リサイズすればいい。
 写真の位置は、ワープロ風だ。そして素朴なHTML風だ。
 文章の中に写真を投げ込むと、湯が溢れたように文章が溢れ、次のページへはみ出す。これがワープロだ。
 久しぶりに一太郎で、レイアウトしたので、全くの初心者だ。HTMLなら、細かい技で、いろいろ対処できるが、一太郎はどんな機能があるのか知らないので、単純な方法を使っている。
 そのヒントは、シートがあることだ。レイヤーだ。このレイヤーを使いこなせるようになれば、一太郎熟練者になれるのだろう。ただ、早く、すぐに作りたいし、単純に文章と写真が組み合わさったレイアウトなので、高等技を使うまでもないという感じだ。光と技を使いすぎると、あとでの修正が面倒だと思う。
 一太郎からPDFへ変換できるが、HTMLへも、変換できる。オプションはごくわずかだ。100ページほどの長いものでも、HTMLに変換できる。その場合、一太郎での1ページが1ファイルになる。だから、HTMLファイルが100枚出来る。リンクも自動的に付けられる。このリンク文字が、前ページ、次ページで、何とも言えない。少ないながらも、HTML変換時でのオプションがある。これを最大限に使うことだろう。既製服は既製服のよさがある。多少サイズが違っていても、中間の色がなかっても、買って、その場ですぐ着て帰れる。
 ネット時代は一太郎のようなワーププロソフトは、それほど出番はなかったのだが、電子書籍が注目され始めると、一太郎を見直す感じになる。例えば長編小説などは、エディターでも書けるが、一太郎やワードで書いている人が多いはずだ。それは印刷するためだ。原稿用紙に合わせた書式で印刷していたのではないだろうか。プリントして読んでもらうためだ。だから、それをPDFに変換すれば、すむ話なのだが、残念ながら、一太郎のジャストPDFには見開きでの右綴じはない。すべて左綴じだ。そのため、PDFで縦書きで出力するときは、見開きしないように、一太郎の用紙設定を用紙横置きにする。横にすると、最初から見開きのようなものだ。それをPDF側で見開きで見る人は、まずいないだろう。そして、PDF設定で、初期画面を単票か、連続単票、つまり、単一ページ表示か、連続ページ表示にチェックを入れる。見開きにさせないためだ。それをやっても、PDF側でどうとでも表示切り替えは出来るのだが、こちらのディフォトを教える必要がある。縦書きPDFで段組がないタイプはモニター上では見にくい。桁数が長く伸びすぎるためだ。そのため、用紙はA5やB6まで落とし、本文余白も大きい目に取るとことで、桁数が短くなり、読みやすくなる。小さなモニターでも、スクロールしないで読める。
 PDFは画面を拡大すれば、読みやすくなるが、桁数や行数が追従しない。だから、画面からはみ出してしまう。
 これがうっとうしいので、電子書籍フォーマットがある。
 だから、次の一太郎で、その電子書籍フォーマットの一種であるイーパブ3変換が出来ることで、PDFより、見やすくなるのだが、PDFの汎用性、使える端末の多さに比べ、イーパブ3でファイルを吐きだしても、それを受け取った人は迷惑するだろう。
 だから、一太郎側から見れば、イーパブ3ビューワーが普及するまでは、PDFで行きましょう。ということだ。一太郎ファイルで保存しておれば、いつでもイーパブ3変換は出来るのだから。作り直す必要はない。ということは、一太郎は中間フォーマットとして、使えるのではないかと思う。
posted by 川崎ゆきお at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月22日

ネットと出版

■2012年1月22日 日曜日 13時56分
 
 晴れている。これも久しぶりのお日様のように思える。そして、暖かい。この時期、この暖かさなら、やはり暖冬だろう。関西は暖冬でも、北国はそうではないようなので、平均を取れば、平年並みと言うことになる。
 老婆の喫茶店は窓側が明るいのだが、日差しがあたる。カーテンはあるが、それでもノートパソコンのモニターが眩しい。いつもは液晶の明るさを一番低くしているが、晴れているときは中程近くまでバーを上げないと、文字が読めない。これを上げすぎると、明るく、よく見えるのだが、バッテリーを食うので、何となく上げたくない。戻れば充電できるので、滞在時間分は十分残っているのだが、たまに充電を忘れている日があり、そのときは電池のアイコンがぐっと減っているのが見えるので、HP減少で、体力不足になったような気になる。
 パソコン方面は、去年の夏前に買った富士通ノートの安いのが生きている。これで、不自由なく使えるので、スマートフォンやアンドロイド端末を買う勢いにはならない。
 ネットも、通信カードがあるのだが、最近は使っていない。外出先からネットをするような用件はないのだ。ただ、デジカメを見に行き、作戦会議で、喫茶店内で、その候補デジカメをネット上で調べるときは重宝するが、それは、別にしなくてもいい。そう言うところで、決まるような話ではないためだ。
 逆にデジカメの使用説明書などを、ダウンロードしたPDFで読んでしまうと、買ったとき、説明書を喫茶店で読む誇らしさがなくなる。もう知っているのだから。そして、同じものを、読んでいるのだから。
 ネットは印刷ではないかと、最近思ったりする。書いたものをプリンをアウトする代わりに、ネット上に表示させることが、印刷というか複製をネットに置くという意味で。
 ネットを印刷だとすると、部数はどうなるのだろう。自分しかアクセスしなければ、一部だ。十人の人が読めば十部だ。ブラウザ上で、読むにしても、覗いているだけではない。一度ダウンロードしないと、覗きもできない。つまりブラウザで読むと言うことは、ダウンロードしていると言うことだ。ただそれを保存しないし、そのファイルがどれなのかは、見えにくいところに溜まっている。
 だから、アクセスした人は、読む、読まないにかかわらず、そのページを、その人のパソコンの中にファイルとして入り込んでいるのだ。このファイルは一時ファイルなので、そのうち入れ替わる。
 ネット上で、ファイルのダウンロードするのと、アクセスして、ホームページやブログを見るのも、同じダウンロードだ。
 だから、ネット上のどこかに、書いたものをフィルではなく、文字列をアップした場合でも、コピー元を置くようなものだ。
 昔のネスケが、ホームページをアップすることを、出版するという翻訳だった。出版と翻訳した人は電子書籍のことなど、まだそれほど一般的ではなかった。このネスケ(今のFirefox)はブラウザ上からホームページの更新ができるバージョンだった。今見ている自分のホームページを、すぐに更新したり、修正したりできた。
 最近は個人ホームページ、ここではレンタルサーバー上に作った、所謂ホームページのことだが、あまり注目されなくなった。ホームページ的なものはブログで作れる時代になったためだ。
 個人ホームページよりも、コミュニケーションツールとしての使い方に変わった。要するにホームページを自分で作っても、ネタがないので、そのまま終わることが多い。あるまとまったコンテンツがないと、なかなか更新できないのだ。ネットを印刷だとすれば、有意な情報でないと、印刷する価値がないという意味で。
 ブログ、フェースブック、ツイッターなどでも有意な発言はある。だが、原稿用紙的には単文だ。断片のようなものだ。その断片を集めれば、あるまとまりのある内容になるのだが、かなりスクロールしないと、全文読めないとなると、しんどいので、後回しになるだろう。
 だから、断片と言わずに、連載だと思えばいい。そして、読む側も、毎日、その人の記事を読むことで、何となく流れが分かってくる。その文字列ではなく、それを書いた人の名前を知っていることで、同じ文字列でも、文脈が分かる。こうなると、もう、それは本を読むようなものだ。
 それならば、その人が、ネット上で断片的に書き込んだ日々の記事を、まとめて本にしようかと、思うようなことになる。だが、この場合の本は旬の電子書籍への道ではなく、まとめて読みたいという程度だ。ただ、これには編集力が必要だ。電子書籍は簡単に作れても、この編集力は簡単なものではない。コピペだけではできないからだ。
 複数の人の記事を集める「まとめサイト」がある。断片的に、あちこちにある同じネタやテーマに関する情報を集めた場所、集めたページだ。こういうまとめたり、整理したりする人が、好きな人がいる。これをある一人の人の記事だけをまとめるというのは、ダイレクトすぎるのだろう。
 ネット上で書き込む文章は、情報系になりがちなのは、そこに自分の主張を入れすぎると、それで気が済んでしまい、新たに書き下ろすとき、もう書いてしまったので、書く気が失せてしまうためかもしれない。
 だから、ネット上で書いてしまい、もう一度同じことを書く気を失せた人は、自分で、その断片を集めて、編集することになる。これは本人にしかできないだろう。繋ぎの文章を挿入しないといけないし、同じことを繰り返して書いていることもある。もうそれで、編集が面倒になり、それをやるより、書き直す、書き下ろす、ほうが早いと感じてしまうだろう。だから、一度書いて発散したとしても、それは下書きで、草稿だと思い、清書すると言うことだろうか。
posted by 川崎ゆきお at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする