2018年08月09日

有田芳生「歌屋 都はるみ」と大下英治「都はるみ 炎の伝説」2

■■ 2018年8月9日 木曜日 午前8時31分
 
 今朝は珍しく曇っている。これも台風の影響だろうか。北へ抜けていくようなので、大阪方面は関係ないのだが、何らかの影響があるのかもしれないし、また曇っているのは別の理由かもしれない。しかし風が結構ある。このおかげで涼しさとなる。
 昨夜はその前日ほどには気温は下がらなかったが、扇風機を使わないで寝ることができた。これは大きい。それと夕方あたりからの凌ぎやすさも。
 流石に昼間はまだ30度少しあり、陽射しがあると、これは暑いが、焼けるような暑さはなくなっている。しかしきつい暑さよりも、このあたりの暑さの方が効いたりする。遠火の照り焼きのように。これはそれほど暑いとは思っていないので、油断があるのだろう。
 それと暑さが静まると、ぐっと体がしんどくなることもある。暑い最中よりも身体がえらかったりする。涼しくなると、疲れがどっと出るというやつだが、そんなに疲れるようなことはしていなかっても、暑さ疲れてというのがあり、暑いだけで、疲れるのだろう。
 今年はものすごい猛暑で、異常な暑さらしいが、五年ほど前の夏の方がきつかった。その当時は猛暑日が連続するのは珍しいとなっていた。今回の気温よりも、その当時の大阪方面での気温の方が高かった。だから、今年はそれに比べるとましな方。
 昼間部屋でいつものところで座っていられなかったほどで、何度か立たないと、耐えられなかったほど。夜も暑く、扇風機と体の距離をかなり近付けていた。それでも寝苦しく、汗ばんだ。今年はそういうことはない。扇風機は遠くに置かないと涼しすぎるし、また途中で、切ることも多かった。
 今年も暑いことは暑いが、炎天下でも、日影が少しあれば、凌げる。長く陽射しを受けると流石に厳しいが、日影を自転車で走っているときは、気持ちがいいほど。まあ、都合よく日影があっての話だが。
 昨日は暑さがましになっていたので、朝の喫茶店からの戻り道大回り散歩を果たす。今まで知らなかった通りを見付け、そこを探索する。通りと言うより生活道路。路地だ。細かく探せばまだ未踏地はあるようだ。ただ、昨日は偶然見付けただけで、これはコースを少し変えることで、見えないものが見えたりする。
 流石に炎天下はきついが、暑かった頃に比べればまし。
 昨日持って出たカメラはパナソニックのネオ一眼。安っぽいカメラだが、そこそこ写る。それよりも20ミリが使えるので、これが効く。当然ネオ一眼なので1200ミリまでいける。この振り幅は大きい。
 液晶は回転しないが、タッチパネルに対応している。滅多に使わないが。また回転しないので、手かざしになるが、それほどカメラを上げないで、斜め上から見れば、何とか分かる。当然ファインダーも付いている。解像力は大したことはなく、ファインダーも小さいのだが、液晶が見えにくいときなどは重宝する。その切り替えは手動。自動切り替えではないので、逆に安定していたりする。ズームも早く、ピントも早い。カメラレベルは低いが、取り扱いが楽。もの凄く頑張ったカメラではないので、逆に気楽に写せる。カメラが大きいので、振り回しやすい。
 画質はコンパクト系の並レベル。結構写っているので、問題はない。
 ミラーレスとかがあるのだが、結局は20ミリから1200ミリまで一台でやってしまえるので、画角の自在さが良い。受光素子が小さいので、できることだ。
 晴れて明るければ、感度は80まで下がる。かなり低感度になり、このときのタッチは結構上品。
 
都はるみ
 都はるみについて書かれた二冊の本。有田芳生の「歌屋 都はるみ」と大下英治の「都はるみ 炎の伝説」の続き。
 伝説のようなものだが、そのエピソードが興味深い。
 都はるみがまだ小学生の頃、歌の学校へ通っていたらしい。しかし、サボりがちで、バス代を浮かしてお菓子を食べていたとか。そして、お隣さんの家に隠れて、行った振りをしていたとか。歌が好きで好きでというエピソードとは合わないのがいい。
 歌の学校では小学生では歌謡曲は歌えないらしい。しかし老人ホームか何処かの慰問では歌謡曲を歌ったらしい。中学生にはなっていなかったが、上手かったのだろう。
 都はるみが歌い出すと年寄り達が下を向いてしまったとか。泣いているのだ。
 そして中学生などがそのあと歌うのだが、都はるみのあとで歌うのを嫌がった。
 そう言うのを聞きに来ていた大阪の音楽事務所のようなもの、これは興行師だろう。それが目をつけ、大阪の超一流のキャバレーかクラブだったと思うが、そこで歌わせた。年齢的にはまずいので、年を誤魔化したらしい。
 歌を聴き、感動した客の会社社長が食事に誘ったが、京都大阪間なので、終電の問題があるのだろう。断った。すると、祝儀袋を渡された。これで帰りに何か食べて、ということだが、半端な額ではなかったようだ。
 年寄り達を泣かせ、クラブでは見知らぬ人からご祝儀をもらう。それだけの歌の力が、この当時からあったのだろう。こういうのが自信になるはず。
 二冊の本とも、似たような話の展開になっているが、歌手へのきっかけとなったコロンビアの全国大会の前に、とあるレコード会社でオーディションを受けたのだが、落ちている。どんな感じだったのかは大下英治の「都はるみ 炎の伝説」側で書かれているので、いい補足になっている。
 京都で見出し、大阪の超一流クラブで歌わせた人のすすめで、一緒に売り出し中の橋幸夫のいる東京のレコード会社へ行った。その本では吉田正をメインとする会社なので、都はるみの歌い方は合わないというものだった。それが落ちた理由。
 このあたりで歌っていた歌は畠山みどりや、こまどり姉妹。母親の好みもあるが、都はるみも好きだったのだろう。
 そのために宮本武蔵の二刀流開眼ではないが、唸り節の開眼がある。唸れるようになったのは、小さい頃からではなかったようだ。
 実際には、浪曲のようには唸れなかったらしい。無理に唸ると、喉が壊れる。これはただのダミ声だろう。だから喉をつぶしてしまうと、今度は綺麗な声が出なくなるはず。だから浪曲や落語家のように、声を潰して、唸れるようになっても仕方がないのだろう。歌いたかったのは歌謡曲なので。
 大下英治の「都はるみ 炎の伝説」では浪曲漫才のタイヘイ夢路さんだったと思うが、それを真似るように、遊び盛りなのに、練習させれれたが、上手くいかない。それで逃げ回ったりしていたので、母親は練習すれば十円やるといわれ、その餌にまんまと乗ってしまったとか。単純明快な子供だ。しかし、唸れない。
 ある日、テレビでやっている弘田三枝子を聞いていると、唸っている。これは唸ると言うよりも、気張っているような声。演歌ではなく、ポップス系なので。そして一つか二つほど上だろう。ほぼ同世代。タイヘイ夢路よりも親しみがある。それで、会得したらしい。できたとき。すぐに母親に唸ってみせた。そのコツは下腹に力を入れることだったらしい。それだけのことなら、誰でも唸れる。その証拠に、その後、音楽学校の生徒にもそのことを教えてやったのだが、誰も唸れなかったとか。
 この唸りは必殺技で、オーディションなどでは畠山みどりの歌を歌う。そのとき、畠山みどりもよく聞くと唸っている。そこをもっと唸ればいい。
 この必殺技は母親が作ったもの。理由は個性。いくら歌がうまくても、個性がないと目立たないと考えたためだろう。
 普通の歌を歌っただけでも年寄りを泣かせ、見知らぬ人から祝儀がもらえる。だから普通に歌っても充分いけるのだが、もっと強い何かが必要だと思ったようだ。それが唸りだ。これは母親が考えたことで、都はるみはそれに従っただけ、歌の練習で外で遊べないので、嫌がることはあっても、結構素直に従っている。
 この二冊の本には出てこないが、昔の歌番組、二谷英明が出ている番組だが、その中で、初めて人の前で歌ったのは三歳のときと話している。これがデビューだ。地蔵盆関係で町内の人達とバスで遠足にでも行ったのだろう。その車内で歌ったようだ。だから歌うのが嫌いなら、三歳では歌わない。そしてこの頃から人前で堂々と歌えたのだ。本当なら恥ずかしいはずだが。
 
 さて、その唸りだが、一番好きなエピソードがある。二冊の本にも出てくるし、NHKの「私の歌の道」にも出てくる。「あんこ椿は恋の花」が出るときのエピソードでもある。これを作詞したのは星野哲朗。夜中、都はるみは市川昭介に連れられて市川宅へ行く。唸り声を聞かせたいためだ。実際には作詞を頼みたかったのだろう。だからコロンビアの人も連れて行った。しかし、それよりも、都はるみの歌を聴かせたかったのかもしれない。依頼するにしても、気に入ってもらわなければいけないし、このとき星野哲朗は別のレコード会社へ行っている。ただ、席はまだコロンビアにあったらしい。
 さて、その唸りの伝説だが、有田芳生の「歌屋 都はるみ」では市川昭介は三曲ほど歌わせたらしいが、最初から最後まですべて唸って歌えと指示したらしい。
 歌い出すと番犬のシェパードが吠えだした。それだけではなく、お漏らしをしてしまったらしい。飼い主を守るために威嚇で吠えたのだが、この犬自身も怖かったのだろう。怯えてしまった。
 煙草を挟んだ星野哲朗の指が小刻みに震え、こめかみの血管が浮いた。
 シェパードも驚いただろうが、飼い主も驚いた。このあたりの下りは二冊の本にもあり、一番好きなシーンだ。
 もし書いてくれるのなら「あんこもの」という注文だけを市川昭介はつけた。そのとき歌った曲の中に松山恵子の「あんこ悲しや」も入っていた。
 星野宅を引き上げてから戻ってしばらくすると、電話がかかってきた。あっというまに詞ができたらしい。その詞を電話で伝えた。ファックスがなかったのだろう、ネットも。B面は星野哲朗が美空ひばりに書いたものだが、お蔵入りになったのでそれを都はるみにやった。
 星野哲朗肉筆による「あんこ椿は恋の花」の原稿は現存し、NHKの「私の歌の道」で映像としてみることができる。
 レコード会社が企画し、作詞家と作曲家に頼み、というパターンではなく、作詞家が勝手に作曲家に頼み込み、会議も何もなく、レコードが美空ひばりもいる大手から出る。そう言ういい時代だったのだ。アーチストが先導できた。このときのコロンビアの人はただの立会人。まあ、新人都はるみをコロンビアは市川昭介に任せていたのだろう。
 実質的にこの当時の都はるみのプロデューサーは、まだ若い作詞家の市川昭介だったことになる。
 NHKの松平アナなら、ここで「そのとき歴史はは動いた」と言うだろう。その夜、動いたのだ。これが都はるみを決定づけたというより、世に出したといってもいい。
 ただ、そこへ至るまでにもいろいろな偶然が重なっている。
 それは、またの機会に。
 しかし、これを書いている今、都はるみは七十才。母親も市川昭介も星野哲朗はもうかなり前に亡くなっている。当然コロンビア大阪大会などで都はるみを押したコロンビアの人も、月刊平凡の人も。いずれも都はるみに道をつけた人達だ。
 この二冊の本で、裏方の人達が大勢いたことが分かる。その中の一人欠けても、「あんこ椿は恋の花」へは進まなかっただろう。いずれも都はるみの歌い方に心を動かした人達。
 そして星野宅のシェパードが唸りに怯え、お漏らしをした。その唸りの恐ろしさを予見するように。
 
 
 
posted by 川崎ゆきお at 09:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。