2019年10月15日

新書太閤記 賎が岳の会戦 吉川英治

■■ 2019年10月15日 火曜日 午前10時11分
 
 今朝は晴れている。久しぶりのような気がするが、台風の印象が強いためだろう。台風後、一度晴れているが、短かった。そしてどんどん寒くなっていく。昼間の気温が20度を超える程度なのだから、これは厳しい。この前まで昼間なら30度近くあったような気がする。それが20度少し。これは中間の25度とかがない。一気にここまで下がっている。
 そのため、朝はコートを着ている人がいる。風も強い。女性は長い目のコートが流行りなのか、自転車に乗っている人に多い。長いのでひらひらする。あれがやりたいのだろう。またニット系の柔らかいが薄いコートのようなのも多い。防寒性にはそれほど貢献しないが、この時期ならいいのだろう。
 昨日は喫茶店でジャージのパーカーを着ている女性がいたが、裏地は毛羽立っていた。冬用だ。もうそういうのを着てもいい気候になっているということだろう。
 喫茶店内は極端で、店により冷房をしているとこと暖房をしているところとかがある。
 それでガクッと気温が下がったためか、眠い。これは冬眠に入るわけではない、人が冬眠すれば、それは永眠になる。
 それで起きるのが遅くなる。目が覚めたとき、もっと寝ていたいような気になる。気だけではなく、瞼がそう言っている。だから瞼からのお知らせで、そういう気になるのだろう。開けたくない。もう少し寝ていたいと。
 夏場はさっと起きられるのだが、冬場はグズグズするようだ。
 それでユニクロで秋向けに買った裏地ジャージのパーカーだが、これはジャンパー風だ。これを着てちょうどといった感じ。下はカッターシャツ。夜など寒いとき外に出る場合、カーデガンを中に着たりするが、少し厚着過ぎる程度でちょうど。寒いと感じるよりもいいが、暑すぎると、逆に気分が悪くなったりする。暖房のムッとする空気などがそれで、息苦しい。寒すぎても暑すぎてもいけない。
 秋の季候の良い頃とは今頃のことを指すのだろうか。すると、少し寒い目ということになる。暑い目の頃は過ぎたので、これも秋。だから中間がない。秋はその中間なのだが、どちらかに傾いている。
 今朝はいつもの伊丹モスが定休日なので、その近くにある古い喫茶店へ行く。高いが仕方がない。さらにその近くにも喫茶店があるが、入ったことのない店。中がよく見えないが、テレビが置いてあることを確認。これは五月蠅いので、駄目だろう。テレビからの声が聞こえるので。
 その並びにもう一軒あったのだが、潰れている。正月の数日、ここに来ていた。
 他にも喫茶店がある。いい感じの個人喫茶があるのだが、十代の頃からたまに行っていた。しかし、雑誌の取材で、その店を案内したので、その後行けない。
 そのあと行ったのは二年ほど前で、インタビューなどを受けるとき、この店に入った。それが最後だ。しかし、店内で写真をバチバチ写されたので、目立ちすぎだ。だから、もう行けない。
 若いママさんだったが、新婚だったのだろう。二十歳代の頃だ。今はそのママさんはお婆さんになっているが、昔と同じ髪型。そして子供が手伝っている。
 ここは煙草屋でもあるので、全席喫煙は当然のこと。客がそれなりにいて潰れないのはパチンコ屋が近いためだ。
 少し寒いが、秋本番になっている。
 
新書太閤記 賎が岳の会戦 吉川英治
 賎が岳と言えば、賎が岳七本槍で有名。このときの戦いのとき、羽柴方の武将が立てた手柄。特に若き小姓達が活躍した。福島正則、加藤清正、等々は有名。そして大身の大名になり、寿命まで生きた。だから色々と語り伝えたのだろうか。その家の歴史のようなものを期したものが残っていたようだ。
 いずれも二十歳代。そして柴田側の二十歳代の若武者と言えば、その甥。佐久間盛政だったと思うが、兄弟が多いので、うろ覚えだが。この甥の佐久間の動きで、勝負が決まった。
 賎が岳の戦い、吉川英治は会戦と呼んでいる。いずれも山岳部で互いに陣地を展開し、ほとんど山城に近い砦を山々に作った。琵琶湖の北側だ。秀吉側もそれと対峙する山々に山砦を築き。長く対峙した。各部隊が広く展開し、睨み合っていたのだから、会戦だろうか。
 明智光秀による本能寺の変は、秀吉が弔い合戦に勝利し、その後、織田家跡取りと旧明智領や信長直轄領を分ける会議が清洲で行われた。発案者は筆頭家老、織田家ナンバーワンの柴田勝家。北陸探題で二百万石以上あるのではないか。織田家最大。ただその中には前田や佐々も含まれている。二人とも勝家の家来ではない。上司と部下程度の関係。
 
 明智の謀反を聞いた後、柴田も駆けつけるが、近江に入るとき、既に終わっていた。だから出る幕がないので、清洲会議で、何とか主導権を握ろうとしたのだろう。
 清洲会議は秀吉の言い分がほぼ決まり、ここで勝家は負けている。
 しかし、その柴田グループは生きている。
 信長の次男信孝、これは岐阜に入っている。伊勢方面に滝川一益。これは関東から戻ってきている。出身は伊賀らしい。明智家よりも家柄がいいとか。
 鉄砲などの扱いは明智が一番で、二番が滝川。新兵器などに強い。既に明智がないので、最新兵器では滝川が一番となるが、戦いはそんなことでは決まらなかったようだ。
 不満を懐く勝家は頻繁に信孝や滝川と密談を繰り返す。信孝から見れば信長の妹お市さんは叔母になる。勝家との縁を、この信孝が結んでいる。だから織田信長の次男織田信孝と柴田勝家の仲は深い。当然清洲会議では信孝を跡目にするはずだった。
 それで、勝家は秀吉と直接戦うことで、決着を付けることになる。不満なので、収まらないのだ。清洲会議がそれではただの猿芝居になってしまうのだが。しかし、この会議で、秀吉は多くの領地をもらうことを辞退したが、有利な条件を色々と得ている。
 
 勝家の作戦としては秀吉と和議を結ぶところから始まる。これが既に戦いなのだ。いきなり和議なので、戦わないと言うことなのに。
 要するに秀吉に油断させるためだが、丸見えだろう。
 その使者に前田利家も加わる。和議が成立し、喜ばしいはずなのに、前田利家は既にどういうことが起こるのか、そのとき予感していた。
 それよりも清洲会議で、あっさりと秀吉領の長浜を柴田に渡している。本能寺のときは寧々さんも母親も、姫路ではなく、ここにいたのだ。それを勝家の案に従い、勝家に渡している。ここは北国への要地だ。ただ、条件を秀吉は出している。勝家の息子を城主にすること。ただ、勝家には実の子はいない。それで養子がいるが、勝家とのそりが悪く嫌われている。その養子を入れるのが条件。これで、もう秀吉の作戦も見えているのだが、勝家の跡取りを城に入れるのだから、何もできないはず。
 しかし、和議の使者の中に、病中の、その養子も同行した。勝手に。
 秀吉は感動した振りをして、和議がなったのは、この長浜の城主になった養子の熱意あってのことと褒めた。
 だが勝家の養子は、病気が悪化し、戻れないで、秀吉の元に残って手厚い看病を受ける。医者も常駐させ、また回復後も、寒い琵琶湖を行くのだから、暖かそうな船をあつらえ、そこにも医者を乗せた。
 父の勝家から冷遇されていただけに、この秀吉に懐く。これで、長浜は取り返したようなものだろう。
 
 柴田勝家の作戦は岐阜の信孝、伊勢の滝川一益と北からの柴田勝家での挟み撃ち狙い。
 秀吉は7万ほどだろうか。柴田グループも全部合わせれば5万から6万になる。ただ、秀吉は中国の浮田などを加えていない。それらを持ってくると明らかに秀吉軍の方が多い。
 そこで勝家は家康の元へ使者を送り、味方にしようとしたが、冷遇。家康はなかなか会ってくれない。待遇も悪い。家康に織田家の内紛に入り込む名分がない。これはのちに長久手の戦いまで待たないといけない。吉川英治は秀吉と対照的なこの家康の描写に多くページを割いている。そうでないと秀吉も見えてこないためだろう。派手な秀吉、地味な家康。
 
 その頃、家康は旧武田領を盗み取っていたが、北条とぶつかり、睨み合ったりしていた。家康は甲州だけでいいと既成事実を認めさせ、北側は北条に任せると言って、北条とのかち合うことを上手く避けた。だから家康は家康で、戦闘中だったので、ということを理由に、接客も質素なものだったらしい。
 家康から見れば柴田勝家は同盟国の一番の重臣。軽く見てはいないが利用価値を見出せなかったのだろうか。それに信長のいない柴田勝家は、少し厳しいだろう。
 さらに柴田勝家は毛利を動かすため、前将軍に依頼するが、これは無理だろう。既に元就はいないが、三本の矢の合意は難しい。それと秀吉を敵に回すことは毛利に隣接する浮田との戦いになる。これは面倒だ。
 
 秀吉がその頃取った手は、柴田勢が戦っている上杉との不可侵条約。お互いに戦わないこと。不戦条約かもしれない。それを成立させている。現実的だ。
 これでお膳立てはできた。いつどちらかが動き出してもおかしくない。柴田と上杉は戦っている最中。佐々成政と前田利家が前線に領地を持っている。敵と敵は味方の図。武田は滅んだが、上杉は生き延びた。武田のときは信長だが、上杉のときは秀吉になったことが大きい。上杉家は生き延びる。
 
 この羽柴と柴田の戦いで先ず大軍を発したのは秀吉。ただ、火蓋を切ったのは柴田側だが、柴田勝家も滝川一益も信孝も直接動いていないし、命じてもいない。フライングだった。
 それは滝川一益配下の城が奪われたようだ。城の家老が奪った。これが発火点。秀吉が奪ったのではない。この城の城主は秀吉に傾き、柴田系を裏切ろうとしているので、家老が先手を打ったのだろう。
 柴田勝家もも羽柴秀吉も形式的には織田家の家臣なのだ。同じ織田家内での争いはあり得ない。御法度。秀吉に名分を与えてしまう。このチャンスを秀吉は逃さず、当時都近くの城にいた秀吉が兵を集める。
 秀吉の本拠地は姫路。既に長浜は勝家に渡しているので、家族は全部姫路へ。しかし、秀吉は天王山に近いところ、京への入口あたりにいる。これだけでも秀吉の方が不審だろう。だが、秀吉は都で政の任にある。これは数人の実力者が合同でやるのだが、その中に勝家も入っているが、京でそんなことはできない。
 また勝家に次ぐ宿老の丹羽長秀は秀吉に一任。他のメンバーの池田も秀吉に任せているので、実質信長に変わって畿内五カ国の政を見るのは、秀吉になっている。だから、姫路には帰らず、京への西の入口あたりにいる。だから拠点だ。
 
 それで、伊勢方面でのこの報を聞き、名分をさらに高めるため、織田家の当主の小さな子、三法師のお墨付き、これは命令のようなものだ。それをもらう。だから私戦ではなく、織田家として戦う。小さな子がそんな命令を発せられるわけがない。織田本家にいる前田玄以を動かしたのだろう。清洲会議で、この三法師を選んだ意味がそこにある。
 これで、従う有力者も名分があるので、従いやすくなる。
 
 だが肝心の滝川一益も、早すぎたと思った。柴田勝家も早いと思ったようだ。予定外。雪解けを待って戦う作戦だった。しかし、そのままでは滝川一益が危ない。秀吉は大軍で長島へ来ている。作戦的にはそれでいいのだが、雪でなんともできない。
 それで強引に雪を掻き分けて琵琶湖が見えるところまで来ることになる。やればできるのなら、最初からやればいいのだが、積雪の中での移動は厳しいのだろう。そのための要員もいるし、多くの兵も送り込めない。
 当然近江との境界線あたりの山々に勝家が来ることは予測していたので、秀吉は二回も下見に出ている。
 そして、真っ先に柴田領である琵琶湖畔の長浜を寝返らせる。看病し、親切にしたおかげだ。勝家の養親の息子は秀吉に懐き、簡単に羽柴軍となる。
 山々での兵はほぼ互角で睨み合っているが、秀吉直轄軍はいない。秀吉本軍は1万5千程だろうか。だがこれは遊軍的な動きをする。
 この陣での秀吉側での最大兵力を持っているのは弟の秀長。これがこの方面での本軍。いるだけの本軍だ。余計なことはしない。
 
 さて、伊勢方面だが、滝川一益は強い。勝家よりも強いのではないかと思える程。地元が近いこともあるのだろうか。簡単には落ちない。やっと城一つを秀吉は落とすが、あとは長期戦になることを知る。あまり力攻めはしない秀吉なのだが、手間取っていられない。挟み撃ちになるためだ。
 
 そして賎が岳で変化がある。
 長浜は寝返ったのだが、柴田の養子の城主の家老の二人は不満。その二人は秀吉勢として山砦を守っている。複数の山があり、要所の山は砦化している。勝家側もそうだ。
 この家老二人が裏切る。勝家側の兵を呼び込むつもりなのだ。これは勝家側の策略で、それがまんまとあたり、家老二人は承知する。
 だが、別の家来の一人が、それを密告する。そのため、この作戦は果たせなかった。これが成功しておれば、形勢は変わったかもしれない。あの中入りをしなくても、秀吉側の拠点を取れたのだ。
 それで、バレたので、逃げだし、勝家側の陣地へ逃れる。元々柴田家の人なので問題はないが、失敗したことで手柄にならない。
 そこで、この家老、案を出す。ずっと秀吉側にいたので、秀吉側の陣地をよく知っている。その配置なども。これは柴田軍も物見で、分かっているのだが、内部から見ると、弱いところがあるらしい。茨木の中川軍が守っている山だ。柴田側からは遠い。それだけ秀吉側の内側にあるのだ。この山がポイントになる。戦いはここで決する。賎が岳ではない。その近くだが。あとでこの戦いを柳ヶ瀬方面の戦いと秀吉は言っている。当然吉川英治が言わせているのだが。
 
 羽柴陣営から見れば、敵は先ず来ないだろうという程奥にある。対峙している取っ付きではなく内側。だから油断していると、その家老は言う。一応人を入れているだけ程度。
 要するに羽柴陣営の奥深いところに近いところを奇襲すると言うこと。その裏切った家老は絵地図まで書いており、間道までしっかりと書いている。複数の山を回り込みながら、そこに行ける。成功すればその家老、北陸で十万石以上の領地をもらえる。
 
 要するに世に言うところの中入り。桶狭間のときの信長の作戦だ。土手っ腹を狙う。この中入り成功例は少ないようだ。飛び出しすぎて失敗する。
 義経のひよどり落としが有名だろう。鹿も四つ足馬も四つ足なので、鹿が下りられる坂なら、馬も降りられるということで、急襲する。須磨の海岸、長く伸びた敵の中に割り込む。
 今回はそんな険しい道ではなく、間道なので、一応道はあるが、本陣からかなり離れてしまうということ。そして敵の陣地に囲まれていること。
 ただ、この情報、膠着状態を脱するには丁度いい。仕掛けるとすれば、そこだ。しかし、それだけでは勝家は動かない。
 秀吉は秀吉の頭で考えた作戦で動いたが、柴田は逃げてきた家老の提案から動いた。
 ところが、もう一つ、裏切り家老は情報を持ってきていた。それは勝家も欲しかったもので、秀吉が今何処にいるのかだ。この秀吉率いる遊軍のようなものが精鋭部隊だろう。秀吉が直接指揮する。
 秀吉側の、この長陣での本軍は秀長が二万程持っていたはず。あとは千単位の部隊が山々で陣を張っている。あと有力なのは堀軍だろう。五千だ。これが大きい。勝家本隊は七千程。その他の軍はあちらこちらに陣を敷いており、前田軍などはかなり後方。
 
 例の山を取りに行くため甥の猛将佐久間盛政が1万5千を二つに分けて押し寄せる予定。山を守る中川隊は千程。これは勝てるだろう。そして、奇襲なので、すぐには周囲の陣から駆けつけられないし、それ以前に秀吉がどうもいないようなので、もの凄いチャンスだ。
 秀吉は大垣あたりにいる。これを内部にいた裏切り家老の手の者が調べていたらしい。最初から裏切るつもりなのだ。まあ、元々柴田家の人達なので、そんなものだろう。
 秀吉は伊勢と岐阜で戦っている。岐阜は信長の次男信孝だが、動きが分からない。だから大垣から岐阜を落とすつもりで来ている。ただ雨で増水し、川が渡れないので、待っていた。
 
 ここで中国大返しと同じことを、やるわけだ。琵琶湖の上まで一気に走り上がることになるのだが、もし第一報を聞いたとしても、戻るまでには賎が岳の戦いは終わっているかもしれない。作戦が見事なためだ。これは秀吉が仕掛けた罠ではない。本当に分からなかったらしい。
 では勝家はどうして負けたのか。秀吉の戻りが早すぎたこともあるが、問題は甥の佐久間盛政。
 奇襲といってもほぼ柴田軍の、ここでの本軍に近い人数を割いている。柴田本隊は有力な敵部隊である堀軍を牽制する動きをするだけ。秀吉側の本隊二万の秀長軍は決戦のときに出てくるのだろう。
 それで簡単に中川隊は敗れる。無理だろう千では。それに城郭ではない。砦程度。しかも柵程度ではなかったかと思われる。
 お隣の山には仲良く本拠地も近い高槻の高山右近がいる。これは危ないと思い、逃げている。だから茨木の中川の方が勇敢で、逃げるどころか打って出ている。しかも何度も引き返すように、近くの山砦からも使者が来る。無理にでも連れ戻し、合流した方がいいと。ここでは三つの陣が並んでいたようだが助けに行くにもどの陣にも千しかいないのだ。
 中川はここで討ち死にする。
 
 だから柴田軍の大勝利。奇襲に成功。ここさえ取れば、お隣の砦を取るのは簡単。奥に入り込んでいるので、この山を取ったことの意味は大きい。羽柴軍の陣形が崩された感じだ。だが、これは平野部での野戦なら飛び出しすぎたことになる。
 
 しかし、何故柴田軍は敗北したのか。
 その直接の原因は甥の佐久間盛政にあるとされているらしい。吉川英治は玄蕃と呼んでいる。玄蕃丞と。兄弟もおり、名前が紛らわしい。また、織田家にも佐久間家がある。それと関係しているのだろうか。桶狭間のとき出城を任されて討ち死にしている。惜しい人だったとか。その兄弟は残り、織田家の重臣で最後は本願寺攻略を任された。織田家最大の敵。だからポジションは高いのだが、追放されている。
 さて佐久間盛政、柴田勝家の甥で、跡取りよりも大事にされ、溺愛とまで吉川英治に言わせている。この佐久間盛政が甥と伯父の関係を戦場に持ち込んでしまった。非常に気安い仲。だから口答えするし、親子げんかのようなこともする。
 中川砦を落とした佐久間盛政はそのままその山で一泊することにした。長い山道を移動して、さらに戦闘で疲れた。ここで休みたかったこともあるし、朝になれば、さらにそれに連なるや砦を落とせる。お隣の高山右近は逃げ出しているし、もう一人も逃げ腰で、大軍のいる秀長の陣と合流しようとしているのだから、三つも一気の取れる。こういう砦は一個抜けると、次々と抜けるのだろう。連係プレーがしにくくなり、孤塁になるためだ。
 その孤塁を恐れて柴田勝家は五回も盛政にすぐに戻れと伝令を送っている。しかもあとになるほど重臣クラスを向かわせているのだが、佐久間盛政は動かない。最高司令官の軍令が通じないのだ。これは伯父と甥の関係を持ち込んでいるためだろう。このとき佐久間盛政は二十後半の暴れ盛り。柴田勝家は55歳ぐらいだろうか。武将としては60ぐらいまでは十分伸び代があったらしい。だからそれほどの年寄りではない。明智光秀などもっと上だ。
 
 佐久間盛政が戻らなかったのにも理由がある。秀吉がいないのだ。そこで一夜過ごしたとしても、織田軍のどの軍がくるかだ。一番有力なのは堀軍の五千。しかしそれは柴田勝家が陽動作戦で押さえている。だから動けない。
 2万いる羽柴秀長はどうか。それには吉川英治は触れていない。秀吉の命を待っているのだろうか。場所は木之本あたりだろうか。これが本軍だ。また、これは人数だけの兵かもしれない。
 だから、翌朝打って出れば、羽柴方の砦をあと二つは簡単に落とせる。そして、そこを基地にすれば、柴田軍の出城ができるようなもの。陣取り合戦で、じわじわ詰め寄れる。
 しかし、中入りだったことを忘れている。敵の砦の中でも奥まったところにあるため、本来なら袋だたきに遭うところ。しかし、奇襲で取ったので、問題はないが、留まるべきところではない。反撃が来るのは間違いないのだから。
 
 柴田勝家が恐れたのはやはり秀吉の存在。大垣からは遠いが、中国大返しを知っているだけに、何をしてくるか分からない。
 そして、佐久間隊は奪った孤塁で寝てしまう。
 当然秀吉の弟、羽柴秀長は奇襲された瞬間既にその一報を大垣へ知らせている。中川軍奮戦中と。
 その一報を秀吉が大垣で聞いたとき、「やられたあ」とか、「負けた」とかではなく「勝った」と周囲に叫ぶ。勝家が動いたからだろうか。勝家の作戦は挟み撃ち。しかし、岐阜も動かないし、伊勢方面も籠城したまま動けない。挟み撃ちなどできない。
 大垣城と岐阜城は近い。美濃だ。大垣城には地元の稲葉一鉄がいる。読み違えたかもしれないが、かなり以前の人だが、まだいたのかという感じだ。意外と若かったのだろう。秀吉は城主の稲葉一鉄と堀尾という信頼できる家臣を残し、岐阜や伊勢方面の押さえとしたのだが、稲葉一鉄が不満を漏らす。堀尾を残しているのは自分への疑いのためだと思ったのだろう。そこで稲葉一鉄は自分も戦場へ行くと言い出す。それに折角の手柄を立てるチャンスなのに、まだ若い堀尾を大垣に止めるのは気の毒だと。堀尾といえば稲葉山時代の岐阜城への要手の裏道を案内した少年だ。秀吉とまだ野武士っぽい蜂須賀小六などと少数で裏側から城内に入り、火を付けたのがきっかけで落城している。
 
 さて、「勝ったと」とは逆に、このあと秀吉が到着したのを見て「負けた」と言ったのが勝家。まだ、戦いはどうなるのかは分からない状態だ。
 秀吉の決断は早い。すぐに馬に乗り、琵琶湖の北へ向かって単騎で走り出す。信長と同じやり方だ。
 その前に道々の村に、握り飯や馬の餌などを用意するよう触れに行かせる四十人程が先発している。そしてかがり火を街道に焚けと。
 そして握り飯を用意したものはその十倍の金額を払うと。
 大垣から琵琶湖の北側、秀長の陣までは秀吉長浜時代の領内だったはず。だから領民との縁もあるのだろう。
 
 秀吉が休憩で立ち寄った寺の地名が馬毛だったと思うが、ようするに「負け」。住職に秀吉は「馬毛寺」だろうと訂正させる。「負けじ」だ。そういう逸話が残っていたのだろう。
 このときも秀吉が先頭。ほとんど一騎駆けの大将だ。何故なら、馬がいいので先頭になる。
 さて、夜中、佐久間隊は寝ている。しかし物見は立てている。何かうっすらと明るいものが見える。場所は特定しにくいが、細い線上の明かり。それが湖畔沿いに長く伸びているのを見る。
 柴田勝家の陣でも、それが確認できた。秀吉が戻ってきたと柴田は、ここで「負けた」と吉川英治に言わせる。柴田側での戦記などはないはずなので、旧柴田家の武将が聞いたのかもしれないが。このあたり、小説としては秀吉に「勝ったと」と言わし、柴田に「負けた」と言わせたかったのかもしれない。しかし、その「負けた」は、柴田の気持ちで、誰も聞いていなかったかもしれない。ここは小説としての対比で分かりやすい。
 ただ、こういう細かい描写は司馬遼太郎にはない。陣張りや兵の動きの細やかなところまで描いている。これは枚数の問題かもしれない。新書太閤記は無制限に近い程長い。好きなだけ書いていいということなのか。だから巻数も多い。
 
 柴田側からすれば中入り後はすぐに戻れと言ったのに、という最悪の状態になった。中入り後の切れが大事と兵法書にあるらしい。それを吉川英治が紹介している。キレとは、切り上げること。すぐに敵と離れること。そうでないと敵のど真ん中にいるので、よってたかって袋だたきになる。それに桶狭間と違い、敵の大将首を取ったわけではない。茨木城主の中川の首を取っただけ。しかも千人もいなかった。だから秀吉の首を取ったのなら、大成功で、戦いはここで終わっている。羽柴軍総崩れだろう。どの部隊も自分の城へ帰るだろう。
 
 寝ているとき、物見の報告を聞いた佐久間盛政は即座に退却を始める。秀吉軍の精鋭部隊が戻ったならそのまままっしぐらに来るはず。うかうかしていると逃げる道がなくなる。ここは機敏だ。すぐに逃げた。もう砦の山は放置して。
 三時間ほどの時間差で秀吉直属軍はその砦へ到着、逃げる道は分かっているので、追撃。あとは一方的に逃げる柴田軍と後ろから追いかける秀吉軍との戦い。勝負にならない。
 秀吉は猛将のイメージはない。どちかというと血を見るのを嫌がり、無理攻めよりも城を囲み、兵糧攻めや水攻めで有名。直接戦闘ではなく。
 しかし、吉川英治によると、若い頃、ただの一武者だった頃は身体に何カ所も傷を負いながら戦ったらしい。ただ、背は低く、痩せており、体格差で不利だったのではないかと思える。
 この戦いは大垣から一騎駆けで突っ込み、その後も、敵の中に突入している。後ろで指揮するのではなく。ここ一番に掛けていたのだろう。
 
 さて、勝家の心配がそのまま現実になる。戻ってきた秀吉はすぐにそのまま佐久間盛政が占拠した砦まで行くが、もぬけの殻。これは先ほど書いた。
 佐久間盛政は何故そこで戦わなかったのだろう。これは囲まれるためだろう。中入りなので、敵のど真ん中にいるためだ。今なら退路は確保されているので、逃げたことになる。要するに先制攻撃されたのだ。それは柴田側がやる段取りだった。
 本軍の柴田勝家は秀吉側の有力部隊の堀隊五千を7千で牽制していたが、堀隊い5千も動き出す。それよりも、長く伸びた松明、秀吉軍の到着で、「負けた」となるのは先ほど言ったが、それが家来にも伝わったのか、7千の本軍が戦う前に半分ほどになっている。命令を待たず先に逃げたのだ。
 有力部隊五千の堀軍の後ろには秀長軍二万がいる。柴田軍は少ないように見えるが、佐久間盛政の奇襲のとき、二万近くを二つに分けて動かしているのだ。それが全部逃げた。
 だから陣地にいても陣そのものが崩れているのだ。それこそ孤軍になる。一緒に逃げたほうがいい。
 あとは一方的な秀吉軍の追撃戦で、柴田軍は後退するほど兵の数は減っていった。バラバラに逃げたためだが、戦わないで脱走した兵が多かったのだろう。山の中に隠れてしまったり、別の方面に逃げたりとか。
 その退路の途中に、後方で陣を敷いている前田利家がいる。後詰めのようなものだろうか。
 佐久間盛政はそこまで辿り着いたとき、数えるほどの兵になっていた。奇襲のときの兵は二つに分けたが1万5千はいたはず。それが数えるほどになっている。それでもここで食い止めようとするのだが、兵の多くは負傷しているし、少なすぎる。
 では前田は何をしていたのか。
 佐久間の頼みで鉄砲隊を貸す。前田軍本隊は戦うかどうかは決めかねているようだが、二隊ほどの鉄砲隊を貸す。貸すのであって、一緒に戦おうということではない。指揮系統が違うためだ。前田軍も逃げてもいいのだ。戦いはもう終わったのだから。
 前田軍は動かない。
 NHK大河ドラマ「利家と松」では退却せず秀吉軍と戦っているシーンがある。あくまでも勝家と共に戦い抜く義理堅い人と。一応北陸探題勝家の配下。家来ではない。織田軍内でも上司だろう。だが、織田軍団というのが分解してしまっている。
 
 前田利家と秀吉との仲はいい。それで敢えて前田軍を後方に置いたのだろう。
 勝家が逃げるときも、前田軍が寝返ったという噂が勝手に流れたらしい。逃げる側としては理由が欲しいためだろう。
 ドラマでは利家を旗本衆が囲み、飛んでくる鉄砲や弓矢から守っていた。利家が引く命令を出さないので、次々に家来が死んでいく。楯になって。
 それでもまだ引かない。これで勝家への忠義のようなものを言いたかったのだろうが、新書太閤記では戦わず、さっさと逃げている。
 それで佐久間盛政も防ぎきれず、落ちていく。
 
 このあと、前田利家は息子の城に入る。府中というところで、柴田の本拠地北之庄のすぐ南だ。前田利家は能登あたりに大きな領地持っている。息子が勝家の近くに城を持っている。
 そして逃げてきた柴田勝家と前田利家とが、ここで顔を合わせる。
 7千の本軍が十人ほどにになってしまった勝家が来る。騎馬八騎歩兵二人程度だったと思う。追撃を受け、兵が減ったのではなく、勝手放題に逃亡したのだ。
 勝家は軽く食事をし、そのあと、秀吉に降ることを進める。そしてこれまでの礼を言う。
 
 そしてしばらくして追撃中の羽柴軍がどっと北陸へ入り込み、その通り道でもある前田親子のいる府中城を囲む。
 しっかりと囲んだあと、千成り瓢箪を一人に持たせて、単身大手門へ秀吉は向かう。羽柴軍の総大将だ。
 門からその姿を見た前田の家来が秀吉であることを知り、中に入れる。秀吉も知っている前田の家来だろう。
 秀吉が訪ねて行ったのは松。「利家と松」のあの松で、御台所。ねねとも親しい。利家ではなく、松を訪ねている。それで、台所へ行く。
 それを見ている前田の武将達の中には秀吉を知らない者がほとんど。派手な陣羽織で、しかも腰に采配を差している。相当の身分の人が来ていることだけは分かる。この戦いの総大将なのだから、相当どころかトップが単身来たのだ。
 秀吉は松に、利家を貸してくれと頼む。これは清洲時代、よく二人で遊びにいった。そのとき、利家を貸してくれと松に言ったのだろう。そのままをここで繰り返している。それで松はピンときた。
 前田利家は本丸へ通じる門ではなく、勝手口のようなところから秀吉を迎える。これは敵の総大将を迎えるのではなく、友人を迎える感じだ。仕事ではなくプライベート。
 これで、府中は落ちた。もう抵抗する城はなく、旧朝倉領だった場所はほぼ秀吉に降った。抵抗する柴田の家臣はいない。
 実際には上杉の押さえとして前田とほぼ同格の佐々成政が残っている。秀吉嫌いだったようだ。
 結構広い領地を持っている。しかし、上杉と秀吉は和睦している。秀吉と上杉は戦わない約束。
 佐々成政は秀吉を敵に回すと、上杉と挟まれてしまい。それで終わってしまう。だから秀吉に従う以外、道はない。同僚の前田と同じように。
 
 あとは柴田勝家の本城北之庄だけ。それでも三千ほどの兵を城に入れていた。お市さんは自害を選んだが三人の娘は総攻撃前に秀吉が迎え入れた。
 吉川英治のそのあとの文章がいい。歴史の妙がそこにあると、その一人は淀君となり、豊臣家を最後まで守る戦国期最大の戦いをした。大坂の陣だ。
 末の娘は家康の息子に嫁ぎ、三代将軍家光を生んでいる。数奇というよりほかないと。
 
 
posted by 川崎ゆきお at 12:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。